コミュニケーションは知覚である
コミュニケーションは知覚である
『コミュニケーションは知覚である』と、経済学者ドラッカーさんも言いました。
私もそうだなーって思います。
私がそう思う理由は、ドラッカーさんが言ってる意味以外にもあります。
だれかとコミュニケーションをすると、私にない視点、知識を得ることができます。
そうすると、これまで気づかなかったことに気づけます。
知覚が広がるということです。
たとえばこんなことがありました。
ある時、Aカフェの店員さんとお話しているうち、そのカフェの椅子がすべてアンティークであるということを知りました。
ふぅーん。
Aカフェがオープン後何年経っても、変わらない落ち着いた雰囲気を醸し出しているのは、そういうインテリアへのこだわりもあるのかな?
それくらいしか、その時は思いませんでした。
その後、Bカフェへ行きました。
ボーっとくつろいでいるときふと、気付いたのです。
床やテーブルや椅子のちゃちっぽさに。。。
そして、オープン以来、丁寧にお手入れをしていないだろうことにも。。。
オープン直後はおしゃれだったでしょう。
ピカピカで、モダンで。
しかし、Aカフェとそれほど違わない年月で、Bカフェは傷ついて安っぽく見える店内。
Aカフェの変わらずシックな雰囲気。
インテリアに特に興味がなかった私。
あの時Aカフェの店員さんと話をしなければ、Bカフェに入っても気づく(知覚する)ことはなかった。
今のちゃちい店内が私には見えなかったのです。
それぞれのカフェのコンセプト、お客様のために美しく維持管理し続けようとするポリシー・想いの違いも、知覚することはなかったのです。
そういうこと、あるでしょ?
カラーについて学んだ途端、これまで気づかなかった色の組み合わせに気づいたり、何気なく見すごしていた看板の素晴らしいデザインに惚れ惚れしたり。
目の前の“人”についても、話をして相手を知れば知るほど、素敵なところに気づきめっちゃコーフンしたこと…ないですか?
コミュニケーションすればするほど、コミュニケーションを通じて知れば知るほど、知覚そのものが鋭敏になってきます。
その分これまで見えなかった世界が見えてきます。
私たちの知らない世界はどれだけ広大なのでしょうか?
私は知りたい。
そこにはもっと精神的にも物質的にも豊かな世界が広がっているから。
そしてあなたにも知ってほしい。
見て聞いて味わって体験してほしい。
そこにはあなたの知らないあなたの才能が眠っているから。
言葉と魔術
言葉と魔術
言葉は、私たち一人一人にどんなイメージや状態、身体の感覚をもたらすのでしょうか?私はよく考えます、「言葉」について。言葉の発生と影響。特に言葉の流行りすたりについてなどなど。
例えば…いつから?誰が作ったの?誰が広めたの?「草食男子」「婚活」って。こんな言葉が、気がついたらとっくに市民権を得ているような気がします。数年前までおしゃべりの中に「彼は草食系?肉食系?」なんて会話があったでしょうか?そんな視点があったでしょうか?そのような分類があったでしょうか?もしも、何年間もずっと友人でいた男性について、誰かがこの言葉を使ってラベルを貼ったなら、その途端に、彼のサブモダリティは変化するのでしょうか?影響はあるのかしら?彼の言動が何も変わってないとしたら、サブモダリティの変化の意味は?今後の二人の関係性の中で何か変わるのかしら?何か役に立つのかしら?
クリスティーナ・ホール博士の著書「言葉を変えると人生が変わる」の中に、とても興味深いお話があります。昔々、代名詞は存在しなかったこと。「自己(セルフ)」という言葉は存在しなかったこと。シェイクスピアの時代の英語にはまだ「未来」という時制がなかったこと、など。
これまで人類はたくさんの言葉を生みだしてきました。また人知れず消え去っていく言葉もあります。そんな言葉というものは果たして、私たちの人生を毎日を豊かにしているのでしょうか?いや、「豊か」という言葉が無かった時代に「貧しい」という言葉も無かったとしたら、人々の物質への執着はどうだったのでしょう?毎日の気分は?行動は?ご近所さんや友人との関係は?
エスキモーだったかしら?「狸」という言葉はなく、狸も狐もみんな「犬」と呼ぶらしいと聞いたことがあります。もしも、「アメリカ人」も「アフリカ人」も「日本人」もなくて、「人」という言葉だけであったなら、世の中はもっと平和だったりするのかしら?もしも「カッコ良い」「頭が良い」「成功」「優しい」もなかったら、劣等感は減るのかしら?「結婚」や「家庭」「夫婦」「恋人」という言葉が無かったら、「嫉妬」も「裏切り」も無かったりして。ホール博士の本の中に「言葉は知覚器官である」という引用がありましたが、私は「言葉は幻・イリュージョンである」とも付け加えたいかな?!
どこかでこんな村の話を聞きました。村の子供がいわゆる“ワルイ”ことをしたとき。村中の人たちがその子の周りに集まって、一人一人、その子がかつて自分にしてくれた良いこと、嬉しかったことを話していくんだそうです。脅したり罰する言葉はなく、愛と感謝の言葉をたくさんかけていくそうです。
みんなに囲まれて、それらの言葉を耳にしている間、その子はどんな気持ちでいるのでしょうか?そしてその経験はその子にどんな影響を与えるのでしょうか?
なぁ~んて思い浮かぶままに「言葉」なるものへの考察を綴ってみましたが、どうも人というものは、新しい言葉をたくさん作りたがる生き物のように思えます。人と同じであるという安心・安全を求めつつ、一方で人との違い・差別化をしたくて。そして自分たちで作りあげている二極化の海で葛藤の渦に巻き込まれてしまうところなど、とっても微笑ましい愛すべき存在であるとも。
そして、最初に例を挙げたように次々と生み出される新しい言葉。うっかりしていると密かにプログラミングされて、誰かの意図どおりに、無意識的にある行動をとらされているかも。
どんな言葉が私たち&未来の人々の可能性を拓いていくのか、幸せな関係性を築いてくれるのか、温かく優しい気持ちの時間を増やしてくれるのか、NLPerとして見て聞いて感じて、意図的に生み出したり使える時間を増やしていきたいですね。もしも言葉が幻・イリュージョンであるとしたら、これから出会う人々に、素敵な魔法をいっぱいいーっぱいかけてあげられる魔術師として。
“言語”なるものを探求する価値のひとつとして
“言語”なるものを探求する価値のひとつとして
心に染みいるメール、そっとじっと抱きしめていたいメールをいただくことって、ありますね。
その、白と黒の線が織りなす文様が、私の迷いをどこかへ蹴散らし、広く高い世界へと誘ってくれて、いつの間に縮こまってしまっていた心を、和らげ温め自由にさせくれたりします。本来の私らしさ・大切なものを思い出させてくれたりだとか。勇気の翼を広げさせてくれたりだとか。
ありがとう。ありがとう。ありがとう。
私は思うのです。
“言葉”或いは“言語”と呼ばれているものが、こんな風に、誰かの頭をそっとなでてくれて、優しく肩を抱いてくれるものならば…。
そして、たとえどこに居ようとも、たとえ何年たったとしても、慈愛溢れる瞳で、ありのままを承認し包み込んでくれるのならば…。
“言葉”“言語”と呼ばれるものを、さらにさらに探求し続けるその価値は無限大だなと。さらにさらに探求し続けるその旅は果てしなく広いなと。そして、さらにさらに多くの方にお伝えしていくその意味はあるなと。
そしてそして強く思います。
私自身も、微笑みかけ、手をそっと握り、その方の気持ちにピッタリのメロディーを奏でられるような、そんな“言葉”“言語”をプレゼント出来る瞬間を、一瞬でも多く創りだしていきたいな。。。と。
恋の媚薬をひとしずく?
恋の媚薬をひとしずく?
“恋してる”状態ってどんな状態?会いたい?話したい?触れたい?物に恋してるのだったとしたら、所有したいになるのかな?
だとしたら…会えたら、話せたら、触れられたら、所有できたら、どうなる?どうなれるから、会いたい?話したい?触れられたい?所有したい?
メタモデル違反(一般化・歪曲・削除)して、それを一言で言うとすれば…それはつまり、“快”を得ることができるからだよね。何かしらの“快”の感情。それは…例えば、好かれているという“快”や、優しくされるという“快”、こんな素敵な人と一緒にいるという“快”、刺激的という“快”だったり、話を聞いてくれる満足感という“快”、リーダーシップをとれるという“快”や、居場所があるという安心の“快”かもしれない。もちろん、一人一人違う“快”だし、同じ人間でもその時々によって求める“快”は違ってくる。
あなたの会いたい相手が与えてくれる、あなたへの“快”、つまり“快”アンカーはなんだろう?そしてそれは、いつ、どんな風に、あなたの心に深く降りていったのだろう?
激しい恋は、一度でガツンとアンカリングされたのかもしれないね。これを故意に起こすにはちょっと修練がいるかもしれない。けれども、ゆっくり育てる恋ならば、誰にでもできるかも。
相手の“快”アンカーは何だろう?相手にとって“快”となる言葉かけ、表情、ふるまい、行動は何だろう?もしも、会うたびに、メールのたびに、アンカリングしていくことができたなら?アンカーをスタックしていくことができたなら?それはまるで、ひとしずく、ひとしずく、恋の媚薬をそっとふくませていくように。。。
これは単なるひとつの提案。恋に定石なんてない。でも、もしかして、試してみる価値あるかも。
そしてそれが、ある日振り返ったときに気づくなら…。二人を繋ぐものが…“愛”と呼べるアンカーとなっていたんだと。。。
まいっか~。わかってくれるだろう~。
まいっか~。わかってくれるだろう~。
「まいっか~。わかってくれるだろう~」そう、軽い気持ちで、友人の気持ちを慮らず不用意に出したメール。その返事の内容が怒りだったり哀しみだったりして、愕然としたことってないですか?
「そんなつもりじゃないのに」「わるぎなんてあるはずないのに」「なんでそんな意味にとられちゃうの?」という困惑から始まって…。「もっとちゃんと時間をかけて書けば良かった。ちゃんと相手の身になって読み返したら良かった」と後悔し…。そして、「なんでわかってくれないんだ!」「そんな風にとるなんて!」「こんくらいのことゆるせないで、堅いな!」と、だんだんと相手のせいにして、腹立てたりして…。
そしてもやもやした時間の中で…相手との関係も気になるまま…ぎくしゃくし…最終的には「やっぱり、コミュニケーションって難しい」「人ってよくわかんない」「自分ってコミュニケーション下手くそなんだ」「自分はだめだ」って一般化して、凹んでしまったりする…。
これが、以前の私のコミュニケーション・パターン、サイクルであった。
今は…ちょっとは成長して「この出来事は私に何を教えてくれているのかな?」「何に気づけというサインなのかな?」「他の人、他の状況でもおんなじことやってないかな?」「よくやってるパターンじゃないのかな?」と、一歩置いて、ディソシエイトして見られる時間も増えてきた。
過去、私が親しい人に話す言葉、出すメール、行動・ふるまいにおいて、「ま、いっか~」「これくらいわかってくれるだろう~」という態度を示すことで、どのような結果が出ていたのかについては、今ではもう計りようがない。「もう、しょうがないな」と許してくれて、変わらぬ付き合いをしてくださった人もいるだろうし、「ああ、もう!」とプンプンしながらも受け入れてくれている人もいるだろうし、「ほっとけ」と遠ざかっていった人もいるだろう。
「まいっか~。わかってくれるだろう~」と思う時、心のどこかでは「もうちょっと丁寧に誤解のないように書いたほうがいいんちゃう?」とささやくパートがいるはずだ。だからこそ、そのパートに対して「わかってくれるよ~あの人ならば」と答えている自分がいるのである。
じゃあなぜ、もうちょっと丁寧に誤解のないように気をつけないのか…?そのパートが存在することに気づいたとき(正確には、友人が勇気を持って正直に伝えてくれたことによって気づかせていただきました、ありがとうございます)、そのパートと話してみた。そのパートがその行動・ふるまいをする肯定的意図は何か?幼いころにまで遡り探ってみよう。
私の場合には、「愛情の確認」であった。どれくらい自分のことを理解してくれているか、普段から見ていてくれているか、愛してくれているか、どこまでの自分を受け入れてくれるのか、という相手の自分に対する愛情量の確認作業という意図があったのである。
そんなに不安なのか…自分という人間は…?そんなにも愛して欲しいのか…自分という人間は…?そんなにも確かめないと安心できないのか…自分という人間は…?
子供のようで、ちょっと可愛いかな~と、少し笑ってしまった。(っていうか、子供の頃に身につけたパターン、生まれたパートだから、子供のままなんだけど^^)
さて。では、その肯定的意図を満たす、別の行動・ふるまいとしては、何が良いんだろう~?私のクリエイティブなパートさん、登場して解決してくれよ。「うーん、親しい人に『大好き』って毎日言ってもらう♪」…おいおい、それは非現実的だよね~。それに、すぐに慣れちゃうし、義務で言ってるって思っちゃうし。「うーん、じゃあね~、(ブツブツブツブツ…)」
なぁ~んて、パートさん同士で会話しているうちに、結局出会う人全てが愛を求めているのだということに、あらためて気がついた。返事してくれた友人も、私の愛情に不安を感じて応答してくれたって解釈もできるんじゃない?!ということは、私はその友人に少なくとも、ちょびっとは愛されているに違いない…なんて有難い!なんて嬉しいじゃない!!そして、嬉しいレスポンスも、嬉しくないレスポンスも、誰かが誰かに何かのアクションを起こすということは、たとえアクションがなくても感情が動くということは、そこに“愛”があるからこそ!!
そんな楽しい一般化は、どうかしら?
人は愛し合わずにはいられない存在。そして、出会う人全てが、私たちを愛してくれている。たとえどんなリアクションをしようとも。そして、私たちもまた。
とはいえ、愛情確認のために戸惑わせ、怒り、哀しませてしまったお友達へ、
本当にごめんなさい。<(_ _)> そして、大好きです。
最強リフレーミング…かも?
最強リフレーミング…かも?
リフレーミングに関する名著は多々あり。また、名スピーカーと呼ばれる方々は、そろってリフレーミングの達人であると言えるだろう。
彼らは、“リフレーミング”というフレーム・カテゴリーを使ってこそいないが、ハッとこの眼を開かせてくれる一言を持っている。私たちが使っていなかった知覚領域を、びっくりするほどに拡げてくれることがある。新たな視点をプレゼントしてくれるさり気ないリードがある。そして、一瞬で気分を変えてくれるフレーズのマジックが、その手中にはある。
或いは、人に限らず、物言わぬ写真から、絵画から、胸を打つ音楽から、芸術作品から、自然の神秘から、宇宙の奇蹟から、まったくこれまでになかった新しい思考が、稲妻のようにこの身体を激しく貫いたことが、あなたにもあるかもしれない。
あなたには、ありますか?お気に入りのリフレーミング・スタイルみたいなものが。
私には個人的に…これは最強のリフレーミングではないかと思うフレーズがある。
それは、、、
「よほどの理由があって…」
それは以前、飯田史彦氏の講演会に出席したおりに聞いたセリフ。
ピンチと思ったとき、心でつぶやいてみる、「よほどの理由があって、今この状況の中にいるのなら、ここからどんな、まだ私が気づいていない新しいステップが待っているのだろう?」
想定外の展開になったとき、心でつぶやいてみる、「よほどの理由があって、この出来事が起きているのなら…私はここから何を学ぶのか?」
思いがけず良い結果が出たときにも「よほどの理由があって、こんなに恵まれているのなら…私がさらに何をしていくために、これは用意された環境なのだろう?」
嬉しいこと、哀しいこと、自分が影響を与えること、影響を受けること、自分で変えられるもの、自分では変えられないことが大小様々に続いていく、人生という美しい織物。
その中で、
「よほどの理由があって、この時代、この国に、この人たちのもとに生まれたのだとしら…?」
「よほどの理由があって、今、この人と出逢ったのだとしたら…?」
「よほどの理由があって、今、別れという形をとってでも教えてくれていることがあるのなら…?」
「よほどの理由があって、このタイミングでこの課題が私を待っていたのなら…?」
「よほどの理由があって、今この言葉・この話を聞くのだとしたら…?」
「よほどの理由があって、今この状況の中に居るのだとしたら…?」
私たちは、今、何に気づくチャンスを迎えているのだろう?
私たちは、ここで、何を受け入れる時期に来ているのだろう?
私たちは、そろそろ何を手放したほうが良いと知らせを受けているのだろう?
私たちは、大切な未来のために、何を決断し行動する分かれ道に立っているのだろう?
私たちが、これを乗り越える方法を見つけることで、さらにどんな可能性や能力が発露していくのだろう?
私たちは、ここで一体どんな素晴らしいことを学びつつあるのだろう?
私たちは、より一層幸せに向かうために、誰に何を告げるのだろう?
私たちは、この創造し拡大し続ける世界から何を求められているのだろう?
さて…
あなたのお気に入りのリフレーミング・スタイルって?


NLPコース感想